2017年03月14日

くよくよモードは心身にとって毒

ほんの一瞬目を閉じて、今日までの1週間、心にひっかかっていたことを思い浮かべてください。そのうちいくつが、ちゃんと理由のある心配事ですか? そしていくつが、なんの根拠もない気苦労だったでしょう?

心配と気苦労とのあいだには、わずかな、でもはっきりしたちがいがあります。

心配事にはもっともな理由があり、なにについての心配かもはっきりしている。つまり心配とは、原因と結果という一連の道筋をたどる論理的な心の動きです。家を出るときに戸締りをするのは、空き巣に入られるのではとか、開けっばなしの窓から風が吹きこんで花瓶が倒れるのでは、などと心配してのことでしょう。

自分の行動がもたらす結果を予想してみて、無用な被害や迷惑を受けないように、適切な手段をとるわけですね。心配することによって不快な状況を回避し、ひいては、さらにリラックスした精神状態を楽しむ可能性を手にするということになります。

一方、気苦労には心配のもつ論理性が欠けています。気苦労は、過去を変えることができるかも、というばかげた「願いごと」か、あるいは、起こってもいないから避けられもしない未来のあれこれについての杷憂に終始しがちです。

ひいては、これといった理由もないモヤモヤした不安(浮動性不安)が積み重なって頭をはなれなくなり、心がすっかり毒されてしまいます。

不安がつけいるがままにしたり、みずから不安を招きよせたりをくりかえしていると、まもなく、不安がほかの感情を追いだして心に定着してしまい、不安な状態こそがあたりまえな心理状態と感じられるようになってきます。

「これこれこういう不安」と指摘できるような具体的な問題なら、おのずと解決法も見つかるでしょうが、漠然とした不安はグズグズとあとを引きます。気苦労が心のなかのバックグラウンド雑音になっていくのです。

チューニングがほんのちょっとずれた状態で長いあいだラジオを聴いていて、あるときぴったり合わせてみたら、音がひどくはっきりと聞こえてびっくりすることがありますね。

にしてもはじまらない気苦労という雑音は、人生から締めだしてしまいましょう。自分自身にとって満足できる境地がどういうものかを明確に目標化することができたとき、はじめてわたしたちは心身ともに十分にリラックスできるのです。
posted by relux at 17:52 | Comment(0) | リラクゼーション
2017年03月13日

感情の波を鎮める

ネガティヴな三大感情から解放されるための、ごくかんたんなトレーニングです。
  • 怒り:
    緊張状態をぬけだしたいなら、まず石ころのような小さくてかたいものを手のひらにのせてみましょう。それを、できるだけきつく握りしめてから、ふっと力をぬく。それから手のひらの上をやさしくころがしてみてください。石ころがコロコロところがると、ほら、やさしい気持ちがほろほろとこぼれでてくるみたいに感じませんか?
  • 悲しみ:
    力感と反応のなさは悲しみの道づれ。ですから、悲しいときにはおもいきって散歩に出かけましょう。道すがら目に入るものに注意を集中してください。どこにいくかとか、おなじルートを何回ぐらい散歩すればいいかとか、それはお好みで。一歩一歩足を進めるごとに、沈んだ気持ちがすこしずつ晴れていきますよね。景色や書や匂いに、努めて反応してみてください。
  • 嫉妬:
    嫉妬しているときの身体にあらわれる反応は、恐怖に直面したときの反応と似ています(嫉妬はしばしば喪失への恐れから生まれるものです)。本能は闘えと命じますが、メラメラ燃える嫉妬の炎に飛びこむかわりに、子どもの手をなでるようなぐあいに、片方の手の甲に、片方の手の指をやさしく走らせます。ひとなでするごとに激しい感情がおさまっていき、静かな気持ちで事態にたちむかえるようになるのです。
posted by relux at 13:40 | Comment(0) | リラクゼーション
2017年03月08日

冷静な考えを取り戻すための考え方「ロデオ」

感情の生理学や心理学は、何世紀にもわたって、科学者や哲学者はもとより、人間の心をもっとよく知りたいと願う人々にとって、尽きせぬ関心の的でした。

学術的な関心ばかりではありません。もっと素朴で現実的な疑問もありました。感情という荒馬をどうやって乗りこなせばいいのだろう?

感情は理性とは逆方向につっぱしるものだと知りながら、自由奔放に暴れさせておくべきか、それとも心のなかでいきいきとはねまわるこの力がしぼんでしまう危険を承知で、手綱をかけるべきか。

アリストテレス(紀元前384〜紀元前322)は、中庸の徳を説いたこの哲学者らしく、感情は適切なるとき、適切なる形を通じて表現されるべきであると考えました。キケロ(紀元前106〜紀元前43)は、感情はわたしたちを害から遠ぎけ、他人への同情へとかりたてる防御的反応であるという見解を示しました。

感情には有用性があるという考え方を支持する人々は、人間が自分の人生や自分をとりまく世界にどれだけ効果的に働きかけられるかは、感情に大きく左右されることを指摘します。しあわせのただなかにいるときには、なんだってやってのけられるような気分になりますし、落ちこんでいるときには、ちょっとした仕事でさえとても手にあまるように感じますね。

キケロ的な人生観でも、恐怖という感情がわたしたちを危険から遠ぎけ、悲しみという感情が他者への同情のきっかけになります。ですが現代では、多くの人々にとって感情をコントロールできないことが、ストレスの原因となっています。

もしも感情の手綱をうまくさばくことができ、ほどよい感情を保つことができさえすれば、人生はずっと生きやすくなる、というわけです。

喧嘩していた人と仲直りできたときや長年の努力がついにむくいられたときの喜び、別れやわるい知らせを受けたときの悲しみ、こうした折々に、感情の大波にすっかり呑まれてしまう。だれしも身に覚えがあるはずです。

しかし、自分の感情だと思いこんでいるものがほんとうに自分の感情なのか、ちょっと疑ってみてもいいかもしれません。

なぜでしょう? 理由は2つ。まずひとつは、人間の感情は暗示にかかりやすいものだという事実です。映画業界では、お涙ちょうだいの物語をこしらえることなど、わけもありません。わたしたちは、つくりごととは知りつつ、恋する二人につい感情移入し、恋の行く手にわがことのように一喜一憂するのです。つまりわたしたちは、自分の感情を他者にあやつられることを学習してしまっているわけです。

理由の2つめ。感情は往々にして、嫉妬やプライド、怒り、他人の不幸を喜ぶ気持ちといった、品性に劣る低次元の自己意識にささえられているということです。

感情をおし殺してみたり、他人に見すかされまいとおし隠してみたり、わたしたちは自分自身の感情との格闘にとてつもない時間をついやしています。

感情という荒くれ馬を乗りこなそうとしているロデオ乗り。まさにどんぴしゃり、それがわたしたちの姿です。
理性という馬具で、強烈すぎる感情をおさえようとがんばっているのです。美徳は、感情の側にではなく、理性の側にあるようについつい思えるでしょうからね。でもじつのところ、感情と理性とを対立させる考え方こそが、不安や苦痛の原因なのです。

自分のなかに感情が湧きでたとき、ネガティヴな感情だけをこしとって、ポジティヴな感情はすんなり外の世界へ放ってやるほうが、ずっと建設的なやり方です。「わたしは荒馬の群れをかっている。でも、ちゃんと馬小屋に入れているのだ」と考えること。どの馬もそれぞれ、あなたの懸命の調教にもおいそれとしたがわない荒馬です。

感情が爆発する瞬間というのは、どの馬かが馬小屋の扉を蹄でけやぶって、いまにも外に逃げだそうとしているときのようなものです。馬小屋からガンガンいう音が聞こえてきたら、すぐさま、なにをやっていようとも、すべてを中断して対処するようにしてください。

白熱した議論の最中でも、1分かそこら論争から身を引いて、頭を冷やしてみることです。人間の意志力や知性、なにより理性にさからわないよう、内なる馬たちをしっかり調教してきたことを忘れないで。

割り当てられた心の小部屋でちゃんとおとなしくしていろ、と命令すれば、馬たちは命令にしたがいます。馬たちが外にかけだしていいのは、あなたが許可を下したときだけです。ふたたび議論に加わるまえに、まず精神を集中して、荒馬たちが静かにまぐさをはんでいる姿を想像してみましょう。

理想をいえば、わたしたちは、いななく感情をぴたりと黙らせることさえできなくてはなりません。いななきが手のつけられないほどに甲高くなったり、いななきのなかにわがままそうな調子。

たとえば、自分のやりたいことが、ほかの人の理性ある行動でさまたげられたので、子どもっぼく駄々をこねるといった…が混じっているのを聞きつけた、といった場合です。

安らかな生活を維持するためには、自分の感情の動き方を把握して、この荒馬の手綱をどこで締めるべきかをその時々で適切に判断できるようにならなければいけません。

しかし、感情に鍵をかけて閉じこめてはみたものの、この感情についてみずから他人に語ることが必要になる場合も出てくるでしょう。自分の感情の襲まで踏みこんで莫撃に語るというのはおとなにとって、とりわけ、こういう問題について軽々しく語らないのが美徳とされてきた男性にとっては、一大決心がいることでしょう。

それに、感情についてしゃべっているうちに、まるで口から出る言葉が呪文ででもあるかのように、封印したはずの感情が見るみるたけり狂った姿でよみがえってくるというのも困ります。ここでも自己鍛練のテクニックが必要になってくるわけです。

たとえば、これから言葉にしようとする感情は、自分の感情じゃなくほかのだれかの感情なのだ、と自分で自分に思いこませてからしゃべってみたらどうでしょう。これが成功するかしないかのポイントは、法廷でのよい証人のようにふるまうことです。あなたははっきりと、でも冷静に証言しなければいけません。でないと審理は混乱し、結局、異相は明らかにならずじまいです。

いまここで自分の心を語ることを選択したのは、ほかならぬあなたであることを忘れないでください。あなたの感情があなたという人間を圧倒してしまうこともある、でもいまこの場にかぎっては、理性の法廷に感情の分析をゆだねたのはあなたです。選択したのがあなた自身である以上、感情のほうが、あなたの完全なコントロール下にあるのです。
posted by relux at 15:33 | Comment(0) | リラクゼーション
タグクラウド