2017年05月31日

川の流れのごとく

道教では、不断に流れゆくものという意味で、川は人生の隠喩としてあつかわれます。流れは融通無得でいながら、強い。水は通り道にある大岩をころがし、岸の岩角をけずり、巨大なタービンさえ回転させます。

なにものも川の流れをとどめることはできません。それは、水がつねにみずからをしなやかに変えて、どんな障害物であれ、その形に合わせて流れすぎることができるからです。自足した生活を送るためには、最低限の抵抗で、しかもしたたかにみずからの道をつらぬく川からおおいに学ぶことができます。

老荘思想の基本をなす警句を集めた古典ですが、ここから引用しておきましょう。「柔よく剛を制す」。現代では多くの人が、最短最速の道がベストだ、と信じています。

ひとつの仕事をできるだけ短い時間で終えれば、それだけ早くつぎの仕事にとりかかれる、それではまるで、おだやかに流れる川ではなく、渦巻く急流ですね。ひとつ障害物に出あうたびにブクブクと白い泡を湧きたてる…。

ゴールに到着するころには、精も根も尽き果ててどんよりしてしまいます。なにせ、成功めぎしてがむしゃらにつっぱしってきたのですから。道教では、大地の秩序に人間の作為を加えようとするこころみは、身のほど知らずにも自然に戦いをいどむ人間のさかしらのよい例であると考えます。

その結果がストレスです。川と、川がはこぶものすべては、自然の理にしたがって海へと流れてゆきます。リラックスの境地に遊ぶためには、人生の自然な流れを「受け入れる」(わたしたち自身が流れなのですよ)こと、そして流れに身をゆだね、流れをさかのぼろうとしたり、スピードを出そうと力んで泳いだりしないこと。
川の流れに乗っていれば、人生の終わりには、わたしたちは自分の望むところにはこばれているはずです。予定していたよりは少し時間がかかるかもしれないし、肩の力をぬいた泳ぎ方に最初のうちはなじめないものを感じるかもしれない。でも流れを信頼することによって、わたしたちは受容の知恵を学ぶことができます。

自然の流れにじたばたと無理な勝負をしかけるのをやめれば、自分自身を成長させる可能性はより広がるのです。
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2017年05月24日

運命はめぐる

運命の輪という伝統的イメージは、人の世のさだめのなさに考えおよぶとき、どれほど人類が運命というものに心うばわれてきたかをみごとに語っています。

人の世は浮いては沈み、沈んでは浮きのくりかえし、というわけです。運命という観念の現代版ヴァージョンはチャンスでしょう。
わたしたちは偶然のきまぐれな手中にある、不運がいつおそいかかるかだれが知ろう、わたしたちが手にするのは受けてしかるべきものではなくて、たまたまふりかかったものばかり。

でも、わたしたちがただただチャンスまかせの人生に甘んじるなら、いったいどうしてリラックスの境地に到達できるでしょうか、リラックスすることができるのは、人生をポジティヴに生きる人だけだというのに…。

運命の女神に入れあげるにせよチャンスに一喜一憂するにせよ(もっとも、星占いやタロット、そのほかもろもろの「運命占い」への人々の熱狂ぶりが示すように、運命信仰はまだまだ根強いのですが)、かんじんなことは、どの程度まで決定論者になるかということです。

人生を甘受するにもよしあしがあります。ふりかかったものごとが、どうあがいても避けようのないものであったなら、敢然と受け入れるのもいいでしょう。

でもなにか手段を講じさえすれば避けられる事態までをだまって受け入れるのは、自分のなかに潜む可能性をみすみすむだにすることです。
これはたしかに人生哲学です、しかし実践的な哲学なのです。リラックスできるようになるには、自分の人生をどう生きていくのかという哲学を、おぼろげにでも心に描けなければいけません。

人生に対する実際的な姿勢には、特定の主義主張や宗教は必要ありません。生きていくうえでどこまでが自分の能力の範囲内にあり、自分の力ではいかんともしがたいことはなんなのかを現実的に判断して、この判断をもとに的確にバランスをとっていけばいいのです。

たとえてみれば、荒れさわぐ海に小舟で乗りだすようなものでしょうか。知識、舟を操る腕、経験を駆使すれば、荒海であっても針路をはずさずに舟を進めることはできます。

ただし、それも海流の力をわきまえて、流れにさからうのではなく、むしろ流れをうまく利用できての話ですが。

結局のところ、わたしたちは舟を操ることはできても、波を思うがままにすることはできないのですからね。大きな不運に見舞われたときに、それを受け入れるのにはたいへんな忍耐と勇気がいるでしょう。しかしそこそこの不運を受け入れるのは、とんでもない難題というほどでもなく、むしろ人間としての幅をもたせてくれるいい経験になるはずです。

多くの人が、あまりにも安易に物質的な幸運、はっきりいえばお金とチャンスとを同一視しています。金銭面や物質面での豊かさを追求すると、リラックスとは縁が薄くなります。

リラックスするには、まず自分の能力の範囲と限界に対するバランスのとれた見方が前提で、手に入れられるものなら、なにがなんでも100%手に入れようと目を血走らせる姿勢とは相いれません。

完全無欠を、最大限をなしとげるぞ、ありとある可能性をひとつのこらず開拓するぞ…こういったやり方でしゃかりきになっていると、自分の限界を超えたところに自分を追いやることになります。

「もっとたくさん」がたどりつくゴールには、失意というテープが張られているのです。経済学の理論でいう「機会費用」の概念は、この間題にも応用できます。ある好機をとらえて追求するなら、必然的にべつの機会はあきらめて見送るという経費を見こまなくてはいけません。

いったん捨てたチャンスを、あともどりしてつかみとることはけっしてできないのです。それでも、これと思って選んだ道で確信をもって行動するなら、みずから手ばなした選択の道をふりかえったときも、きっとなんの後悔ものこらないはずです。
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2017年05月12日

責任転嫁の鎖を断ち切る

私たちは、時々、どうして、どう見ても自分の責任…少なくとも責任の一端は自分にあるのに…その責任をのがれるためにだれかに責任をかぶせたい誘惑にかられます。

こうして私たちは「悪いのは誰だ!」の鎖に自らをつなぐのです。ネガティブなエネルギーにとってはこの鎖はまたとない通路になります。この鎖を断ち切ればひょっとしたらあなたは考えていたよりも大きな責任を引き受けなければならないかもしれません。

それでもこんな鎖はばらばらにしてしまったほうがずっと建設的です。以下の質問事項は責任のなすりあいで混乱している状況を冷静に見直してみる土台になってくれるはずです。
  1. もめごとの表向きの理由はなんでしょうか?本当は建前の陰になにか隠れた原因があるのでは?表に出ていない原因をはっきりさせてこの際「悪いのは誰だ」の鎖を断ち切ってみましょう
  2. ほかの人たちがあなたに責任をかぶせたからでは?あなたが悪くないならほかの人の責任を追求する気を起こすこともなかったのでは?
  3. 責任を引き受けたとしてあなたに失うものがありますか?あなたが考える「最悪のケース」とは?ベストのケースは?自分には罪がないと思い続けることができなくなったとして、だからどうなんでしょう?自尊心が傷つくとか?
  4. どうしたら泥試合をおしまいにでできるのでしょうか?問題全体を棚上げするかなかったことにできませんか?あなたが率先して「悪いのは誰だ」の鎖がもうなくなったかのようにことを進めたらどうでしょうか?
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2017年05月02日

悪いのはだーれだ?

わるいことをすると、おまわりさんにつかまるよ すごく幼いころから、わたしたちはこう教わってきました。犯した過ちは罰せられることを、こういう言葉で学習するのです。

わたしたちは共同体の一員としての義務があるのですから、この手の教えも、共同体の安全と平和を守るための基礎の基礎としては必要です。
しかしわたしたちには、有罪無罪といった観念を本来の社会的コンテクストから切りはなし、ごく個人的な問題にもちこむきらいがあります。

ところが、有罪無罪を個人的問題にもちこむ過程で、人間が犯しがちな過ちをつけくわえてしまうことがすくなくありません。

自分自身の判断の誤りを、べつのだれかの責任にするという過ちです。グループ全体を償いの責任から解放するために、他の全員の身代わりに罪を負う存在となる「スケープゴートがしたてあげられるのです。

これは、心理学的にはごくありきたりの現象です。スケープゴートがしたてられるときの集団の心理状態というのは、ちょっとした「戦争ごっこ」の雰囲気です。
責任がまるでボールさながら、あちこちにパスされているうち、急に事態が紛糾してきて、全員の感情が、異様なほどに激してきます。

やがて派閥ができはじめます。ちなみに派閥作りは、政治のもっとも低次元な形態です。こうしてわたしがだれかに責任をかぶせれば、ほかの3 人がわたしに責任をかぶせるということになります。「わるいのはだれだ」式の解決案はまちがっています。

なぜならこの解決方法は最善でも、ものごとをひどく雑に単純化してしまいますし、最悪の場合は、自分自身で負うべき責任を他人に転嫁することになるからです。いつまでいってもきりのない責任のたらいまわしは、じわじわと心をくさらせていきます。

責任者さがしという無益な仕事にのめりこむことによって、心の平和がかき乱されていくのです。平和をとりもどしたいなら、なによりもまず、正直に事実に直面すること(自分自身の過失をみとめる勇気をもってください)、

そして事実をそのまま受け入れること(他人の過失をわたしたちはどうこうできないことを理解しましょう)。「わるいのはだれだ」は、非理性的な魔女狩り的行動、まったく非生産的な意識です。リラックスを心から求める人の心のなかには居場所のあるはずもないものなのです。
posted by relux at 18:31 | Comment(0) | リラクゼーション
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