2017年07月09日

ポジティブな思考

「ポジティヴに考えなさいよ」。リラックスなんてお呼びじゃない悲観主義におちいっていると、まわりの人たちはわたしたちにこうはっぱをかけます。

でも、ポジティヴな思考は単なる傷ついた感情の応急手当て以上のもの、創造性と将来への展望との源なのです。

マハトマ・ガンディーはこう語っています− 「世界がこう変わるのを見たいと思う、そういう変化を、わたしたちはわたしたち自身において実現しなければならない」。これこそ、ポジティヴな思考のもっとも単純にして明解な定義です。まるで酢がいつのまにか蜂蜜に変わるみたいに、心身を痛めつけるようなできごとが自分を甘やかしてくれるようなおいしいできごとへと変わってしまう。

ポジティヴな思考というものは、そんな他力本願の考え方をはるかに超えたもの。じつのところ自己自身への信頼に深く根ざした心のもち方なのです。自己自身への信頼こそは、思考の力であり、未来を信じて前進するためのエネルギーではないでしょうか。

土がなければ美しい花も咲きません。現実になにかものをつくったり、自分の生活環境を変えてみたり、社会の変革に力を貸したりといったことに先立って、わたしたちがみずから創造する作品といえば、それは思考です。自分の考えを信頼し尊重しない人は、たとえ、他人をけなすことで自分へのいつわりの信頼を装おうとしたところで、結局は、自分自身の可能性が信じきれません。自分の心への尊重が土壌となってポジティヴな思考はじょうぶに育ち、心の平和という実をつけるのです。

心の平和− ポジティヴな心の姿勢とリラックスとの切っても切れない関係をずばりあらわした、意味深い言葉です。

「変化であれ」という表現は、わたしたち自身が変わること、そしてわたしたちが変化をおよぼすことという二つを意味します。つまり、この言葉の意義は、機械の一部品のように自己が世界の単なる一部分として存在しているのホリステイソクではなく、自己と世界とを分割できないものとしてとらえる全体論的な観点にあります。

自分自身のエネルギーを事物にもたらすそのとき、わたしたちは自分自身の内面をも変化させているのです。ポジティヴな考え方をしているときには、大波が小波を呑みこむかのように、内面の不安は、ポジティヴな考え方にうち消されていきます。

ネガティヴな雑音を静まらせるポジティヴな思考で心をいっぱいにしているのですから、心には平和がおとずれます。わたしたちは一人ひとりが無限の可能性を秘めています。

ポジティヴに思考するなら、内なるエネルギーは磁石のように、おのずと成功に向けてわたしたちをひっぱっていきます。わたしたちはただ、自分自身を信じればいいのです。
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2017年07月03日

人生の舵取り

いったん人生の流れを受け入れ、独りよがりにガンバルことをやめると、なにがなんでもものごとを管理しなければ、といった思いこみがなくなっていきます。

管理。時代の風潮にはぴったりはまっていますが、過大評価されてきた現代社会のヒット商品ですね。現代社会は、管理という考え方を、いつの時代、どの文化にも通用する普遍的正義にまで格上げしてしまいました。

かくて、人類という生物種がたどりついた倣憎の極致が、遺伝学から環境工学までに浸透した、自然そのものを管理できるという思想です。東洋の英知は、よりよい生き方の奥義を啓示してくれるものとして、しだいに西欧でも理解されるようになってきましたが、この東洋の英知は、管理よりもずっと繊細な、受容という観念に力点を置いています。

この観念は運命決定論と同一視されがちですが、じつは2つは似て非なる観念です。むしろこういったほうがいいでしょう。

受容とは、自然の木目にがんこにさからうより、木目にそってうまく仕事を進めることである、と。リラックスするなら、ペースダウンしなければ。人生は流れゆくもの、全速力で駆けぬけるものではありません。

原因と結果とがあわただしく連続するエピソードがまにまに挿しはさまれることもありますが。

とりわけ重要な仕事になればなるほど、じっくり時間をかけてしあげるといい結果が出るものです。すばらしいアイデアが湧いて、なんとしてもこれをやりとげないでは死ぬに死ねない、おちおち休んでもいられないといった状況は、みなさん体験しているでしょう。

でも、結果を出すことに性急すぎると、知らぬまに生活から安らぎが失われていきます。そして、不変の真実を思いしらせる、恰好のサンプルになってしまうのです。つまり、自然の木目にさからって意志力のタールを塗ってみてもタールは塗った本人にはねかえってくると云うことです。

もちろん、長い人生の間には断固とした意志をもって事態を打開するほうがいいケースもります。舵を取らなければ私たちのヨットはめざす目的地から何海里もそれてしまうでしょう。
ときには不屈の決意でゴールをめざすことも必要なのです。

ためにならないつきあいを終わらせたい!周囲の意向をはねのけたい…などです。

ただ、逆の場合も考えてみてください。つまり、これこれの関係を「スタート」させたいといった場合です。こういう場合にわたしたちが自分の意志でできることといえば、ただ自分の望む方向をめぎすことだけ、そして自分からのささやかな追い風が、状況を望みの結果に向けてはこんでくれるかどうかを見守ることだけです。

自分がコースをはずれて漂流しているようだと思ったら、ときどき方向修正してみるのもいいでしょう。とはいえ、自分がめざしている方向が果たしてほんとうにめざすべき方向なのかを問いかけてみることも、冒険には不可欠です。

生活のあれこれの局面で未解決の問題を抱え、どれも結果待ちの状態にいるとき、どっしりと腰をすえてなりゆきを見守るのは、大多数の人にとってとんでもない難題です。

こういう状況では、当面の問題そのものよりも、まるで先行きが見えないこと自体が、不安をかきたてるからです。こういう場合の最善の対処法は、自分はほんとうはこうありたい、こうなれば満足だという状況を文章に表現して、それをくりかえし唱えることでしょう。

当然そうなるはずだ、いや、ならなくてはおかしいと思いこんでしまうまで、くりかえすのです。それともうひとつ。どうあがいてみても事態がコントロールできない期間は、裏をかえせば、問題から一時的に心を解放して、自由を楽しめる時間であるのだと自分にいいきかせること。夏のあいだは朝から晩まで収穫に精を出す農夫も、冬には消耗した体力をとりもどすことに専念します。

このいわば冬の時期は、自分自身にとって無理のないリラクセーションの形を見つけるための準備期間だと考えましょう。
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2017年06月24日

無為自然 作為をくわだてぬ技

自発的にはなにも行為せず、問題がおのずと解決されていくのにまかせるというと、ずばり現実逃避の考え方のように受けとられるかもしれません。

しかし、これは、道教でいう“無為”無作為による行為とほぼおなじことなのです。“無為”の極意は、つぎの2つを避けることにあります。

努力のための努力をする、自然の流れにさからう、この2つともに、望んだのとは逆の結果を招き、人をいたずらにハイテンションな状態におとしいれる原因と考えられているのです。

道教でいう道(老子は宇宙の絶対的実理を「無為」、「道」、「一」と説きました)を歩むことは、からまわりしたガンバリやそこからくる緊張を放棄して、“創造的な静寂”の状態に達することを意味します。「一の偉大な像を心に浮かべるならば、世界はその者に来たる。世界は力によりて招きよせるものにあらず、流れゆくものにして、穏やかなるもの、一なるもの、その恵みを受けたるもののうちに生じ来るものなり」。『道徳経』には、このほかにも、瞑想のテーマとして恰好の警句があります。
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2017年05月31日

川の流れのごとく

道教では、不断に流れゆくものという意味で、川は人生の隠喩としてあつかわれます。流れは融通無得でいながら、強い。水は通り道にある大岩をころがし、岸の岩角をけずり、巨大なタービンさえ回転させます。

なにものも川の流れをとどめることはできません。それは、水がつねにみずからをしなやかに変えて、どんな障害物であれ、その形に合わせて流れすぎることができるからです。自足した生活を送るためには、最低限の抵抗で、しかもしたたかにみずからの道をつらぬく川からおおいに学ぶことができます。

老荘思想の基本をなす警句を集めた古典ですが、ここから引用しておきましょう。「柔よく剛を制す」。現代では多くの人が、最短最速の道がベストだ、と信じています。

ひとつの仕事をできるだけ短い時間で終えれば、それだけ早くつぎの仕事にとりかかれる、それではまるで、おだやかに流れる川ではなく、渦巻く急流ですね。ひとつ障害物に出あうたびにブクブクと白い泡を湧きたてる…。

ゴールに到着するころには、精も根も尽き果ててどんよりしてしまいます。なにせ、成功めぎしてがむしゃらにつっぱしってきたのですから。道教では、大地の秩序に人間の作為を加えようとするこころみは、身のほど知らずにも自然に戦いをいどむ人間のさかしらのよい例であると考えます。

その結果がストレスです。川と、川がはこぶものすべては、自然の理にしたがって海へと流れてゆきます。リラックスの境地に遊ぶためには、人生の自然な流れを「受け入れる」(わたしたち自身が流れなのですよ)こと、そして流れに身をゆだね、流れをさかのぼろうとしたり、スピードを出そうと力んで泳いだりしないこと。
川の流れに乗っていれば、人生の終わりには、わたしたちは自分の望むところにはこばれているはずです。予定していたよりは少し時間がかかるかもしれないし、肩の力をぬいた泳ぎ方に最初のうちはなじめないものを感じるかもしれない。でも流れを信頼することによって、わたしたちは受容の知恵を学ぶことができます。

自然の流れにじたばたと無理な勝負をしかけるのをやめれば、自分自身を成長させる可能性はより広がるのです。
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2017年05月24日

運命はめぐる

運命の輪という伝統的イメージは、人の世のさだめのなさに考えおよぶとき、どれほど人類が運命というものに心うばわれてきたかをみごとに語っています。

人の世は浮いては沈み、沈んでは浮きのくりかえし、というわけです。運命という観念の現代版ヴァージョンはチャンスでしょう。
わたしたちは偶然のきまぐれな手中にある、不運がいつおそいかかるかだれが知ろう、わたしたちが手にするのは受けてしかるべきものではなくて、たまたまふりかかったものばかり。

でも、わたしたちがただただチャンスまかせの人生に甘んじるなら、いったいどうしてリラックスの境地に到達できるでしょうか、リラックスすることができるのは、人生をポジティヴに生きる人だけだというのに…。

運命の女神に入れあげるにせよチャンスに一喜一憂するにせよ(もっとも、星占いやタロット、そのほかもろもろの「運命占い」への人々の熱狂ぶりが示すように、運命信仰はまだまだ根強いのですが)、かんじんなことは、どの程度まで決定論者になるかということです。

人生を甘受するにもよしあしがあります。ふりかかったものごとが、どうあがいても避けようのないものであったなら、敢然と受け入れるのもいいでしょう。

でもなにか手段を講じさえすれば避けられる事態までをだまって受け入れるのは、自分のなかに潜む可能性をみすみすむだにすることです。
これはたしかに人生哲学です、しかし実践的な哲学なのです。リラックスできるようになるには、自分の人生をどう生きていくのかという哲学を、おぼろげにでも心に描けなければいけません。

人生に対する実際的な姿勢には、特定の主義主張や宗教は必要ありません。生きていくうえでどこまでが自分の能力の範囲内にあり、自分の力ではいかんともしがたいことはなんなのかを現実的に判断して、この判断をもとに的確にバランスをとっていけばいいのです。

たとえてみれば、荒れさわぐ海に小舟で乗りだすようなものでしょうか。知識、舟を操る腕、経験を駆使すれば、荒海であっても針路をはずさずに舟を進めることはできます。

ただし、それも海流の力をわきまえて、流れにさからうのではなく、むしろ流れをうまく利用できての話ですが。

結局のところ、わたしたちは舟を操ることはできても、波を思うがままにすることはできないのですからね。大きな不運に見舞われたときに、それを受け入れるのにはたいへんな忍耐と勇気がいるでしょう。しかしそこそこの不運を受け入れるのは、とんでもない難題というほどでもなく、むしろ人間としての幅をもたせてくれるいい経験になるはずです。

多くの人が、あまりにも安易に物質的な幸運、はっきりいえばお金とチャンスとを同一視しています。金銭面や物質面での豊かさを追求すると、リラックスとは縁が薄くなります。

リラックスするには、まず自分の能力の範囲と限界に対するバランスのとれた見方が前提で、手に入れられるものなら、なにがなんでも100%手に入れようと目を血走らせる姿勢とは相いれません。

完全無欠を、最大限をなしとげるぞ、ありとある可能性をひとつのこらず開拓するぞ…こういったやり方でしゃかりきになっていると、自分の限界を超えたところに自分を追いやることになります。

「もっとたくさん」がたどりつくゴールには、失意というテープが張られているのです。経済学の理論でいう「機会費用」の概念は、この間題にも応用できます。ある好機をとらえて追求するなら、必然的にべつの機会はあきらめて見送るという経費を見こまなくてはいけません。

いったん捨てたチャンスを、あともどりしてつかみとることはけっしてできないのです。それでも、これと思って選んだ道で確信をもって行動するなら、みずから手ばなした選択の道をふりかえったときも、きっとなんの後悔ものこらないはずです。
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2017年05月12日

責任転嫁の鎖を断ち切る

私たちは、時々、どうして、どう見ても自分の責任…少なくとも責任の一端は自分にあるのに…その責任をのがれるためにだれかに責任をかぶせたい誘惑にかられます。

こうして私たちは「悪いのは誰だ!」の鎖に自らをつなぐのです。ネガティブなエネルギーにとってはこの鎖はまたとない通路になります。この鎖を断ち切ればひょっとしたらあなたは考えていたよりも大きな責任を引き受けなければならないかもしれません。

それでもこんな鎖はばらばらにしてしまったほうがずっと建設的です。以下の質問事項は責任のなすりあいで混乱している状況を冷静に見直してみる土台になってくれるはずです。
  1. もめごとの表向きの理由はなんでしょうか?本当は建前の陰になにか隠れた原因があるのでは?表に出ていない原因をはっきりさせてこの際「悪いのは誰だ」の鎖を断ち切ってみましょう
  2. ほかの人たちがあなたに責任をかぶせたからでは?あなたが悪くないならほかの人の責任を追求する気を起こすこともなかったのでは?
  3. 責任を引き受けたとしてあなたに失うものがありますか?あなたが考える「最悪のケース」とは?ベストのケースは?自分には罪がないと思い続けることができなくなったとして、だからどうなんでしょう?自尊心が傷つくとか?
  4. どうしたら泥試合をおしまいにでできるのでしょうか?問題全体を棚上げするかなかったことにできませんか?あなたが率先して「悪いのは誰だ」の鎖がもうなくなったかのようにことを進めたらどうでしょうか?
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2017年05月02日

悪いのはだーれだ?

わるいことをすると、おまわりさんにつかまるよ すごく幼いころから、わたしたちはこう教わってきました。犯した過ちは罰せられることを、こういう言葉で学習するのです。

わたしたちは共同体の一員としての義務があるのですから、この手の教えも、共同体の安全と平和を守るための基礎の基礎としては必要です。
しかしわたしたちには、有罪無罪といった観念を本来の社会的コンテクストから切りはなし、ごく個人的な問題にもちこむきらいがあります。

ところが、有罪無罪を個人的問題にもちこむ過程で、人間が犯しがちな過ちをつけくわえてしまうことがすくなくありません。

自分自身の判断の誤りを、べつのだれかの責任にするという過ちです。グループ全体を償いの責任から解放するために、他の全員の身代わりに罪を負う存在となる「スケープゴートがしたてあげられるのです。

これは、心理学的にはごくありきたりの現象です。スケープゴートがしたてられるときの集団の心理状態というのは、ちょっとした「戦争ごっこ」の雰囲気です。
責任がまるでボールさながら、あちこちにパスされているうち、急に事態が紛糾してきて、全員の感情が、異様なほどに激してきます。

やがて派閥ができはじめます。ちなみに派閥作りは、政治のもっとも低次元な形態です。こうしてわたしがだれかに責任をかぶせれば、ほかの3 人がわたしに責任をかぶせるということになります。「わるいのはだれだ」式の解決案はまちがっています。

なぜならこの解決方法は最善でも、ものごとをひどく雑に単純化してしまいますし、最悪の場合は、自分自身で負うべき責任を他人に転嫁することになるからです。いつまでいってもきりのない責任のたらいまわしは、じわじわと心をくさらせていきます。

責任者さがしという無益な仕事にのめりこむことによって、心の平和がかき乱されていくのです。平和をとりもどしたいなら、なによりもまず、正直に事実に直面すること(自分自身の過失をみとめる勇気をもってください)、

そして事実をそのまま受け入れること(他人の過失をわたしたちはどうこうできないことを理解しましょう)。「わるいのはだれだ」は、非理性的な魔女狩り的行動、まったく非生産的な意識です。リラックスを心から求める人の心のなかには居場所のあるはずもないものなのです。
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2017年04月19日

罪悪感と良心

良心とは道徳的な知恵の貯蔵庫、なにが善でなにが悪であるかについての直観が湧きいずる水源です。わたしたちが利己的なことや他人に苦痛を与えること、あるいは道徳的にあやしいことをいったりしたりすると、良心がかならずしつこく警告音を響かせます。

きびしいけれどためになる助言を与えてくれる友人、そして、わたしたちのふるまいを写した古い映画を再上映しては、遠慮会釈のない評価を下してくれる批評家でもあります。つぎのシーンではもっとよく役を演じることができるよう、わたしたちの演技を全体的にチェックして、こうやるといい、ああしてはいけないと教えてくれるのです。

良心の声にいつも耳をかたむけているなら、わたしたちは申しぶんない生き方をし、よい行いばかりしえいるはず。
一歩たりともまちがった道には踏みこまず、自分自身との間に葛藤や反目もないでしょう。しかしいつとはしれず私たちの良心は声をおし殺すようになります。でもそのあとでは心の奥深いとおろに何かしらイヤな感じが広がるのです。このイヤな感じにはいったいどんな意味があるのでしょうか?
そのときに大きな選択に迫られます。このイヤな感じをさぐるべきか?それとも知らんぷりするべきなのか?

罪悪感…良心という水源からしみ出す感情

には2つのタイプがあります。ひとつは「展望のある」罪悪感で、なにかまちがったことをしたり、考えたりすると、わたしたちにそれと気づかせ、もし心の平和をとりもどしたいなら、いまの状況を改善するために手を打つべき、と教えてくれるものです。

きみは本来の自分を見うしなっているけれど、まだ引きかえせる。でもそのためには良心の示してくれる目印にしたがうべきだよ、と。

もうひとつのタイプは、外から押しつけられる「お題目的な」罪悪感、責めるばかりで建設的なところのない意識です。親や教師は、子どもの内面に生まれながらに備わっているはずの善悪の観念を育てようと力を尽くします。

しかし、こうした教育は、教育する側の道徳観の押しつけになりがちなものですし、子どもは成長していくにつれ、時代遅れだとか現実にかみあっていないとかの理由で、おとなに押しつけられた道徳観に反発するようになるものです。

そのうえわるいことに、おとなのなかには、他人の罪悪感を利用して自分の権威を保とうとする人もいます。典型的な例が、奴隷の主人さながらにいばりちらし、息子をガミガミしかりとばす父親。こういう父親は内心では自信がなく、親しみややさしさをすなおに表現することにより自分の弱さがあばかれるように思えて、その代わりにいばりちらすのです。

他人から押しつけられるタイプの罪悪感は、ただもう恐怖感だけでささえられています。こうした罪悪感が長期間にわたって外部の権威(学校、家庭、宗教、所属する団体)から押しつけられていると、ついには自分のほんとうの良心が語ることも、なんだか疑わしく思えるようになります。

疑いの念がむくむく頭をもたげてきます。

いま罪悪感を感じているのは、良心を「発達させすぎた」せいじゃないかしら、一度くらい自分勝手をやったからって、ぜったいだめってものでもないじゃない…。

自分は、仲間から勝手だと非難されるのがこわいばかりに他人のいうがままになっていると感じたことが、あなたには何度もあったのではないですか?自分のなかにしっかりした善悪の基準を確立していないと、やましい気分を「もたされる」ことによって、他人に自分自身の行動を決定されることに甘んじるようになります。

しかし、自分の内なる声に耳をふさぎ、自分で自分の行動を決定しないでいると、もっと強い罪悪感を味わわねばならないでしょう。

集団内であらかじめ決められて受けつがれてきたタイプの良心が、まちがっていることもあります。自分自身の本能から発する良心の声のほうが正しいことがあるのです。わたしたちは、からみあうこの二つの縄をきちんと分けて、そのときそのときでどちらが正しいかを判断するすべを学ぶべきです。

その過程で、内面の強さは育っていきます。そして心の奥底まで根を張ってはいるけれど、実のところ異物のように感じられる押しつけられた罪悪感を、はねかえす勇気をもつことができるのです。
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2017年04月14日

心の雑音を消す

浮動不安は、たいていの人にとって人生の道づれです。わたしたちは気苦労という心のバックグラウンド雑音をあんまり聴きなれてしまった結果、心に雑書がしていることさえ忘れてしまっています。

このイメージ・トレーニングでは、あなたがまずこの雑音の存在を認識し、それから追いはらう…すくなくとも、気苦労がこのつぎにあなたの顔に暗い陰を落とすようになるまでのあいだ…ための手助けとなるものです。
  1. ゆったりと腰をかけ、目を閉じましょう。静かな森の小道を歩いていると想像してください。もうすぐ木立の開けたところに出ます。空き地の真ん中までゆっくり進み、腰をおろします。
  2. どこからともなく集まった動物たちが、あなたをとりまいています。危害を加える気配はないようですが、じつはそれぞれが、あなたの心配ごとが形を変えたものなのです。身体が大きい順に心配の度合いも大きくなります。たとえば俊足のガゼルは仕事の締切り、ライオンは人間関係のトラブルです。
  3. 空き地の一方の側にハチの巣がありまゼす。ハチの一群がこちらへ飛んできてブンブンと羽音をたてます。これがあなたの浮動不安です。
  4. 動物たちの1頭1頭を、そっとなでてやってください。あなたの手がふれるにつれて動物たちはおとなしくなり、森の奥へと姿を消していきます。あとにのこったのはハチたちの羽音だけ。
  5. ハチの形をしたちっぽけな気苦労が、1匹1匹巣にかえっていくのを想像してください。空き地に静寂がもどりました。気苦労の種は巣に羽を休めています。明日のことは明日心配すればよし。平和があたりに満ちています。2

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2017年03月14日

くよくよモードは心身にとって毒

ほんの一瞬目を閉じて、今日までの1週間、心にひっかかっていたことを思い浮かべてください。そのうちいくつが、ちゃんと理由のある心配事ですか? そしていくつが、なんの根拠もない気苦労だったでしょう?

心配と気苦労とのあいだには、わずかな、でもはっきりしたちがいがあります。

心配事にはもっともな理由があり、なにについての心配かもはっきりしている。つまり心配とは、原因と結果という一連の道筋をたどる論理的な心の動きです。家を出るときに戸締りをするのは、空き巣に入られるのではとか、開けっばなしの窓から風が吹きこんで花瓶が倒れるのでは、などと心配してのことでしょう。

自分の行動がもたらす結果を予想してみて、無用な被害や迷惑を受けないように、適切な手段をとるわけですね。心配することによって不快な状況を回避し、ひいては、さらにリラックスした精神状態を楽しむ可能性を手にするということになります。

一方、気苦労には心配のもつ論理性が欠けています。気苦労は、過去を変えることができるかも、というばかげた「願いごと」か、あるいは、起こってもいないから避けられもしない未来のあれこれについての杷憂に終始しがちです。

ひいては、これといった理由もないモヤモヤした不安(浮動性不安)が積み重なって頭をはなれなくなり、心がすっかり毒されてしまいます。

不安がつけいるがままにしたり、みずから不安を招きよせたりをくりかえしていると、まもなく、不安がほかの感情を追いだして心に定着してしまい、不安な状態こそがあたりまえな心理状態と感じられるようになってきます。

「これこれこういう不安」と指摘できるような具体的な問題なら、おのずと解決法も見つかるでしょうが、漠然とした不安はグズグズとあとを引きます。気苦労が心のなかのバックグラウンド雑音になっていくのです。

チューニングがほんのちょっとずれた状態で長いあいだラジオを聴いていて、あるときぴったり合わせてみたら、音がひどくはっきりと聞こえてびっくりすることがありますね。

にしてもはじまらない気苦労という雑音は、人生から締めだしてしまいましょう。自分自身にとって満足できる境地がどういうものかを明確に目標化することができたとき、はじめてわたしたちは心身ともに十分にリラックスできるのです。
posted by relux at 17:52 | Comment(0) | リラクゼーション
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